WEBコラム〈26〉アフガニスタン元留学生の退避支援

アフガニスタン元留学生の退避支援

福田 彩

東京外国語大学

世界言語社会教育センター/国際教育支援室
特任講師

「タリバンが戻ってきた」。

2021年8月15日にこの知らせがあった時から、東京外国語大学のアフガニスタンの元留学生の本格的な退避支援が始まった。東京外国語大学には、大学院のPeace and Conflict Studiesに、卒業生も含め5名のアフガニスタンからの学生がいた。そのうち、2021年8月現在、2名は卒業生としてアフガニスタン国外におり、1名は在学生として日本にいたので安全だった。残る2名が問題だった。アフガニスタン国内のカブールにいたのだ。この2名は、タリバンから見ると相容れない「西側」の一員である日本で高等教育を受け、さらに1名はアフガニスタン旧政権の高官、1名は大学教員という、タリバンが目の敵にしている存在だった。

 東京外国語大学には、2001年に米国等がタリバン政権を打倒した後に復興支援を行う上で、日本が担当となった軍閥の武装解除を日本政府特別代表として指揮した伊勢崎賢治という教授がいた。林佳世子学長、そしてこの教授が他の大学に先駆けて動き、このカブールにいた2名とその家族をなんとか日本に退避させるべく役員、スタッフも支援した。私自身はオンライン教育や国際的な教育実践を普段行っているが、Peace and Conflict Studiesの授業に関わっている一員として、退避支援にも加わることになった。入管、在留資格認定証明書、ビザの種類、在留資格の種類、難民条約、難民の定義などなど、私はチンプンカンプンで、それらのことに詳しい専門家や他のスタッフに教えてもらい勉強しながらのスタートだった。

 2021年8月15日の後、昼夜早朝深夜関係なく、さまざまな大学の教員・スタッフたちの間で退避支援に関するメール・連絡が飛び交った。復興で日本が国策として注力した教育支援により日本で学位を受けて命の危険に晒されているアフガニスタン人たちからの、退避させてくれという悲痛な叫びが日本全国の元指導教員の元に続々と届いたからだ。アフガニスタン現地では、西側で教育を受けた人や西側の政府や組織で働いていた人、そして旧政府の高官を狙った、秘密裏の誘拐、拷問、暗殺などが横行していた。そのために、東京外大の卒業生2名も、家族を連れて住む場所を転々としたりしながら身を潜めるように暮らしていた。どのようにしたら彼らを日本に退避させられるのか。日本が国策として教育支援した人たちがそのために命の危険にさらされているので、その人たちを救うのは日本としての責任なのではないか。退避要請を受けた複数の大学、機関の教員・スタッフたちは日夜、政治家や官僚に退避支援を要請すべく会議を重ねたり、一般に訴えるためにシンポジウムを開いたり記者会見等によりメディアにも現状を共有したりした。

 東京外大では、林学長の旗振りがあったために役員を含めた教員もスタッフも、もちろん通常業務を抱えながらではあるが複数人数が退避支援に奔走することができた。他の大学は、教員個人で退避支援をしているケースも多く、支援に関わった者として学長の元、全学をあげて支援できたことは色々なことが行いやすく、幸運だったといえる。ようやく東京外大の二家族が日本に入国できたのは、政変から1年後の、それぞれ2022年夏と秋だった。2021年から渡日が実現するまでの間、大学の支援者たちは、この卒業生たちがいつ危険な目に遭ってしまうのだろうかと戦々恐々とし、日本に入国してもらうための政府等との交渉がうまく進まず絶望的な気持ちにもなったりしたが、二家族全員の顔を見たときには皆で心底安堵した。渡日して少し落ち着いた頃、二家族にご馳走してもらった手作りのアフガニスタン料理の美味しさは感動的で忘れられない。

 こうして、東京外大のアフガニスタンの卒業生の命は救えた。しかし、渡日した時点で、また新しい挑戦が始まった。仕事のこと、言葉のこと、健康のこと、子供の教育・進学のこと、親の介護のこと、家族の妊娠・出産のこと。この二家族の場合、大学が招聘して入国したので、日本定着のための日本政府からの支援は得られない。大学が定着の支援をするしかなかった。在留資格に関しては政府がアフガニスタンの人たちのための特別の待遇を出したため更新の希望はあったが、仕事や生活に関してはゼロからの開拓をするよりほかなかった。仕事に関しては、役員等の差配で新規で授業を立ち上げ元留学生に担当してもらったり、学内の教員から仕事をもらったり紹介を受けたりなどしてきた。日本語も、退避家族に学内の日本語講座を受けてもらえるようにした。しかし、二家族のうち一家族は、日本で暮らすことに生活の安定が見出せず、本当は日本にいたいという気持ちを持ちながら家族のために決断し、公的な生活支援、仕事への支援、語学習得の支援もあるヨーロッパへ移住していった。その元留学生は私にとって長年の友人ともいえる人だったので、日本が公的な支援を提供できないことに、いち日本人として本当に無念な思いだった。

 数々の大学、団体、企業、地方自治体、そして学生ボランティアなどの協力を得ながら、もう一つの高齢者から乳児までを抱える大家族と、東京外大は現在も伴走している。大学スタッフは通常業務を抱えながら支援しているという状況は変わらず、人的リソース、財源にも限界がある。しかし仕事のこと、子供の進学のこと、将来的に住む場所のことなど課題は山積で待ったなしだ。

 祖国を離れなければならなくなったのは、彼らが責めを負う類のものではない。退避しなければならなくなった遠因としては、彼らが日本で教育を受けたということもあり、その教育支援というのは日本が国策として支援した結果でもあった。だから彼らは修士号や博士号を持っている。高学歴なことに加え、気質的にも日本との親和性が高いと感じる。アフガニスタンは多様な民族で構成されており、東京外大で受け入れてきたアフガニスタン人たちも色々な民族の人がいたが、彼らはおしなべて、多くの日本に住む人が持つような勤勉さ、謙虚さ、人に対する丁寧さなどを共有しているように思う。このような人たちは十分に日本社会に貢献してくれるだろうし、彼らもそれを望んでいる。日本もこのような人たちに頼れば良いと本当に思う。しかし、現状、そのためのシステムが構築されているとは言い難い。そして、当事者と支援者は地域の力を借りつつも途方に暮れながら暗中模索しながら、元留学生とその家族の能力を活かしきれているのかわからないまま、個別に進んでいくしかないのだ。多様性、グローバル化と叫ぶのであれば、日本社会のためにうまく貢献してもらえる先進的な仕組みを他国から学び作ることは十分できるのではないか。

(本コラムは個人の見解です)

2023年06月22日 | Posted in TaSSK/WEBコラム | | Comments Closed 

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